good day

 わたしは間もなく建物を出て帰途に着いた。
 澱(よど)んだような穏やかな空の日足が、木々の影を地上に長く引いていた。
 公園は相変わらず森閑としていて、そこにはもう奇怪な青年も鳥打帽の男たちの姿も見えなかった。
 わたしはその晩、旧友並山(なみやま)副領事の自宅に招かれて久しぶりに日本料理の馳走(ちそう)になった。食事のあとでハバナを燻(くゆ)らしながら安楽椅子(あんらくいす)に腰を下ろしたわたしは、金門公園の不思議な青年の話をした。並山はわたしがそのことを酷(ひど)く気にかけているのを軽く笑って、
「そんなことはきみ、沿岸の日本人間にはざらにあることで、略奪結婚っていうやつだよ。まさかその青年が言うように、そうもむやみと人殺しはやるまいが、といっても酷い奴になると、まったく何をやりだすかしれないがね」

 バルコニーの外は低い砂丘を一つ越して、青空にくっきりと限られた代赭色(たいしゃいろ)の岩鼻岬(いわはなみさき)、その中腹の白い記念塔、岬の先端の兜岩(かぶといわ)、なだらかな弧を描いている波打ち際、いつも同じ絵であった。ただ、その朝は水平線の上が刷毛(はけ)で刷(は)いたように明るく、遠くの沖を簪船(かんざしぶね)が二隻も三隻も通っていくのが見えた。つい近くの波間に遊んでいた数羽の水禽(みずどり)が翼を並べて、兜岩のほうへ立っていった。今朝もまた、青首(鴨(かも))が来ている。

 彼はとある横町でようやく粗末な料理店を見付けた。
 食事時間を大分過ぎていたので、僅(わずか)に数える程の客があちこちの席に就(つ)いている計(ばか)りであった。卓子(テーブル)を三側(かわ)おいた彼の筋向うには、前額の禿上った男が頻(しき)りに新聞紙を読耽(よみふけ)っていた。帳場に近い衝立の陰には、厚化粧をして頬紅(ほおべに)を塗った怪しげな女が、愛想笑いをしながら折々泉原の方を振返っていた。女は長い巻煙草(シガー)を細い指先に挟んで、軽い煙をあげている。隅の卓子(テーブル)では二人の青年が鼻を突合せて何事か熱心に喋合っていた。
 泉原は髪の毛のちゞれた女給仕(ウェートレス)の運んでくる食物を黙々として食った。
 食事が済むと、彼は幾許(なにがし)かの勘定を払って戸外(そと)へ出た。そして安い旅館(ホテル)をさがす為に、場末の町へボツ/\と歩をむけた。